第4回 健康はコストか、投資か ―企業価値を高める健康経営の本質―

 

4-1. 「頑張るしかない」はマネジメントなのか

彌冨:これまで、健康経営の視点で見た管理職の役割についてお話を伺ってきました。

ここから少し視点を広げて、健康を軸とした経営や組織づくりについても議論を深めていきたいと思います。鈴木先生、ご質問をお願いいたします。

鈴木:私自身、現在マネジメントをしながら、担当職場を持ち、実務にあたっているため、プレイングマネジャーでもあります。そのため、先ほどのお話は自分自身にも重なる部分が多く、大変印象に残りました。

担当職場の管理職と面談する中で、プレイングマネジャーとして非常に高い負荷の中で働いている方が多いと感じています。先ほどのお話にもありましたように、プロジェクト型の業務が多く、たとえば時間外労働が100時間を超えていても、自分の業務を代替できる人がいないという状況もあります。特に年度末には、一般社員の残業が制限される一方で、そのしわ寄せが管理職に集中し、「4月までに完了させなければならない」という期限に追われ、かなり疲弊している幹部社員も見受けられます。

管理職の中には、なかなかSOSを出しにくい方もいます。相談ラインや窓口は整備されていますが、実際には現場まで情報が届きにくい状況があります。結果として、「自分が頑張るしかない」と抱え込んでしまう組織が少なくないように感じています。更に上位の幹部社員とも話をすることはありますが、最終的には「頑張るしかない」という結論になってしまうこともあります。自覚症状が出ているほど疲労している場合であっても、産業医や看護職が十分に介入しきれない場面もあり、難しさを感じています。

少し漠然とした質問になりますが、このような職場に対して、どのような助言や工夫が考えられるでしょうか。現実的にはビジネスを継続していかなければならないという事情もあり、非常にもどかしさを感じています。このような状況に対して、どのような工夫や働きかけが有効なのか、ご意見を伺えればと思います。

岡田:おそらく、これはどの企業さんでもそうなんですけども、例えば大きな事件が起こってしまうと、会社というのはすぐに変革できるんです。特に日本の企業は、そういうところがあります。

私がある会社の産業医をしていた時のことです。ある大きなプロジェクトが立ち上がって、そのプロジェクトを担当した取締役、その下のマネジャー、さらに課長と、部下から上役へと順番にメンタルヘルス不調に陥りました。長時間労働が続いていて、時間外労働も月100時間を超えていました。そこで人事部長に、「これに対しては産業医勧告を出します」とお伝えしたんです。「もう実際に倒れている方がいらっしゃるわけですから、これ以上この状態を続けるのであれば、産業医として勧告を出さざるを得ません」と。

そうしたら、社長が人事部長と一緒に来られて、「勧告だけは出さないでください」と言われたんです。

「産業医の勧告が出たあとに、また何か起こったら、会社として悪質だと見られるじゃないですか」と。私は、「いや、それは悪質でしょう」と言いました。

そうしたら、「いや、ちょっと待ってください」と言われる。

でも、ちょっと待ってくださいと言われても、もう取締役まで倒れているわけです。マネジャーも、社員の方も3人も倒れている。そこまで来たら、産業医としては勧告を出さざるを得ないじゃないですか。

すると、「いやいや、ちょっと待ってください。何とかします」と言われました。

それで何をしたかというと、時間外労働を削減して、きちんと休日を取らせて、働き方をしっかり見直したんです。そうしたら、ちゃんと対策ができたんです。

私が「できるじゃないですか」と言ったら、「いやあ、やればできますね」と言われて。

私は思わず、「えっ?」と言いましたけどね。

笑い話のようですけども、実際、そういうことが起こりました。

 

4-2.なぜ人が倒れるまで変われないのか

私は思わず、「じゃあ、その3人は犠牲ですか」と言ったんです。すると、「すみません」とおっしゃっていました。

結局、産業医勧告は出しませんでした。それが産業医として正しかったのか、今でも分かりません。

ただ、その後、会社は大きく変わりました。時間外労働を減らして、有給休暇もきちんと取得するようになったんです。

その上、会社の業績は落ちなかったんです。

「業績が落ちると言ってたじゃないですか」と聞いたら、「いやいや、落ちませんでした」と。私は、「それなら、最初からできたじゃないですが。言ってることと、やってることが違うじゃないですか」と、かなりきつく申し上げました。私は、産業医選任はこれまでと思っていましたが、そうではありませんでした。この経験を通して、私はつくづく思いました。

やったらできる。日本の企業は、おそらくやったらできるんです。

 

4-3.なぜ組織は「犠牲」が出るまで動かないのか

何かが起こってから、ようやく変わる。先ほどお話しした某県警の事例もそうです。警部補の方が自ら命を絶たれ、ご両親、そして妻子がそれぞれ裁判を起こし、最終的には最高裁まで争われました。そこまでのことが起きて、初めて組織が急に変わるわけです。

つまり、日本の社会には、誰かが犠牲になって初めて物事が動く、というところがあるんです。しかし、そういう社会のあり方は、改めていかなければなりません。

私たち産業保健スタッフの仕事は、予防です。危険を予知し、何かが起こってから対応するのではなく、そもそも起こらないようにする。

ところが、経営側には、この予防の価値がなかなか理解されにくい。まだ何も起きていない段階で、そこにお金や人を投じることについては、「本当に必要なのか」と思われてしまう。

一方で、実際に問題が起これば、行政上の処分や損害賠償などが生じて、「これは大変だ」ということになる。けれども、その前の段階で危険を予測し、必要な対策を講じるところまでは、なかなか考えが及ばない。この「予知」や「予見」という考え方が、日本の組織にはまだ十分に根づいていないのではないかと思います。

ただ、最近の若い経営者の中には、きちんと理解している方も増えています。特に若い経営者が率いる中小企業では、最初から健康経営に取り組もうとする会社があります。

そうすると、その取り組みが人材の確保にもつながっていくんですね。

会社に行ってみると、時間どおりに仕事が終わる。有給休暇もきちんと取れる。安心して働ける環境が整っている。そうした評判が広がると、若い人や優秀な人材が集まってくる。そして、さらに会社が良くなっていく。良い循環が回り始めるわけです。

では、その良い循環、つまりPDCAをどう回していくのか。

まず必要なのは、経営トップの考え方です。そして、そのトップの考え方を、現場で具体的な行動に移す管理職がいることです。

経営トップが方向を示し、管理職がそれを職場で実行する。そうすることで、従業員は安心して働くことができ、自分の力を十分に発揮できるようになります。

 

4-4.なぜアメリカは日本の2倍稼げるのか

一つ面白いデータがあります。日本、韓国、アメリカ。この3か国は、実は世界でも長時間労働国なんです。ところが、労働生産性を見ると違います。日本と韓国は低い。一方、アメリカは日本の約2倍です。

日本では1時間働いて約50ドルの付加価値しか生み出せませんが、アメリカでは約100ドルです。同じように長時間働いているのに、これだけ差があるわけです。

では、その違いは何でしょうか。

私は、その一つが睡眠時間だと思っています。

日本人とアメリカ人を比べると、睡眠時間は男性で約1時間、女性でも約80分、アメリカ人のほうが長いというデータがあります。

つまり、労働時間は長くても、アメリカ人のほうがしっかり睡眠を取っているんです。

そう考えると、日本企業は「仕事以外の時間をどう使っているのか」ということを、もっと真剣に考えなければいけません。

例えば、仕事が終わった後に毎日のように飲みに行く文化です。もちろん、コミュニケーションは大切です。しかし、それが続くとアルコール摂取量が増え、帰宅時間も遅くなり、睡眠時間が削られてしまう。

さらに、夜遅くに飲食をすると、翌朝は食欲がなくなって朝食を抜いてしまう。そして長時間の絶食のあとに昼食を一気に食べることで、急激な血糖上昇やインスリン分泌が起こり、身体への負担が大きくなります。

こうした生活習慣は、心血管イベントのリスクを高めることも指摘されています。

実は昔から、飢餓状態のあとに急に食事を与えることの危険性は知られていました。豊臣秀吉の兵糧攻めの逸話にも関連づけて語られることがあり、医学的には『リフィーディング症候群』として知られています。急激な栄養摂取が身体に大きな負担を与えるという考え方は、現在の医学でも理解されています。

ですから、しっかり夕食を取り、十分な睡眠を確保し、翌朝も朝食を食べる。当たり前のようですが、この生活習慣こそが健康だけでなく、労働生産性を高める土台になるのです。

アメリカでは、残業をしても仕事が終わればすぐ帰ります。日本のように、毎日のように飲みに行くという文化はあまりありません。

つまり、仕事以外の拘束時間が短い。その分、睡眠や家族との時間を確保できるので、結果として労働生産性も高くなるわけです。

以前、アメリカの方と話していて面白いことを言われました。「日本は危険な国ですね」と。何が危険なのかと思ったら、「通勤電車でみんな眠っているじゃないですか。時には熟睡していますよね」と。アメリカなら、その状態では財布を取られてしまいます。でも日本では、それだけ深く眠れるほど睡眠不足の人が多いということでもあるんです。

私は、この話を聞いて、日本は睡眠に大きな課題を抱えている国なんだと改めて感じました。

だからこそ、勤務間インターバル制度など、「しっかり休息時間(睡眠時間)を確保する」という考え方が重要になってきます。

管理職の皆さんには、「長く働かせること」ではなく、「十分に休ませて、翌日最高のパフォーマンスを発揮してもらうこと」がマネジメントだという視点を、ぜひ持っていただきたいと思います。

 

4-5.睡眠不足を生む組織が会社を弱くする

11時間程度の勤務間インターバルを確保し、十分な睡眠時間を取ることが重要です。休息が不十分なまま翌日に事故や健康障害が起これば、会社の労務管理が問われる可能性があります。ですから、労働時間をきちんと管理しなければいけない。

ただ、その前に考えるべきなのは、作業管理と作業工程です。そもそも、1日8時間で終わる仕事として設計されているのか、ということです。

以前、大阪労働局のご依頼で過重労働について講演した後、ある工場の課長さんが、こう言われました。

「私は休日労働を命じていません。本人が日曜日に勝手に出てきて仕事をしているのだから、残業ではないですよね」と。すると労働基準監督官が、はっきり言われたんです。

「日曜日に出てこなければ間に合わない作業工程を、あなたが組んだのではないですか。それは従業員の問題ではなく、管理する側の責任です」と。

まさに、そこなんです。

残業を前提にした作業工程そのものに、無理がある。残業が続けば疲労がたまり、翌日の作業効率が落ちる。8時間で終わる仕事に9時間、10時間とかかるようになり、遅れを取り戻すために、また残業する。そして、さらに効率が落ちていく。

この悪循環を断ち切らなければいけません。長時間労働の問題は、本人の頑張りではなく、仕事の設計と管理の問題として考える必要があると思います。

 

4-6.“みなし管理職”が職場を壊す

彌冨:管理職が「頑張るしかない」のではなく、管理職が力を発揮できる組織をつくることこそ、経営の役割なのだと感じました。次の課題として、そのような組織文化をどのように現場へ浸透させていくのかについて、お話を伺いたいと思います。森本先生、いかがでしょうか。

森本:先ほどお話いただいた中間管理職のことに興味があるので、もう少しお伺いしたいと思います。例えば、管理職候補の人が自他ともにしっかりできる人で、マネジメントもでき、その人が管理職になって、マネジメントしていただくというのが一番いいのですが、現実的には、完全に条件がそろっている人って多分1割もいないのではと思っています。結局、人不足であったり、管理職になりたがらない人がいたり、人への関心が薄い人がいる中で、マネジメントの部分に強い懸念があるけれども、片目つぶってエイヤで管理職にする、もしくは、役割が人を育てるという言い訳のもとで管理職にするのが、非常に多いのではと思っています。そうすると、一部は管理職になった人が、いわゆる昇進うつで倒れるとか、もしくは、本人が倒れなくても部下の人たちが倒れていく、みたいな話がでてきてしまいます。このような現状がある中で、人事部門、産業保健職がどのようにサポートしていったらいいのか、どういう教育がまずスタートラインとして大事なのか、岡田先生からコメントいただけたらと思います。

岡田:管理職教育というのは本当に難しいですね。管理のやり方を学ばないまま管理職になっても、いいマネジメントはできません。だから、管理職になってから教育するだけでは遅いんです。管理職になる前から、人を育てる力やマネジメントの基本を身につけてもらうことが大切なんですね。

十分な育成をしないまま管理職にして、いきなり部下を持たせても、本人も大変ですし、何より部下が不幸なんです。

よく「みなし店長」や「名ばかり管理職」という言葉がありますよね。

それまで経営やマネジメントに十分関わった経験もなく、人を育てる教育や研修も受けないまま、突然店長や管理職になるケースがあります。そういう状況で、「この店の利益を上げなさい」「数字を達成しなさい」と求められたら、どうなるでしょうか。

一番手っ取り早い方法は、人件費を抑えて、みんなに長く働いてもらうことです。つまり、長時間労働に頼ったマネジメントになりやすい。

でも、それでは一時的に数字は良く見えても、職場は疲弊し、人は育たず、離職も増えてしまいます。

だから管理職には、「利益を上げる方法」ではなく、「人を育てながら成果を上げる方法」を、管理職になる前からしっかり学んでもらうことが大切なんです。

森本:なるほど。

岡田:そうすると、結局は「もっと働け」というマネジメントになってしまうんです。

本来であれば、どうすれば効率よく成果を出せるのか、いわゆるコストパフォーマンスやタイムパフォーマンスを考えなければいけません。ところが、それを考えずに、「とにかく働いて利益を上げろ」となってしまう。

そこには戦略も戦術もありません。ただ力任せに長時間働くというマネジメントになってしまうんです。でも、それでは管理職本人も苦しくなりますし、部下も疲弊してしまいます。

つまり、誰も幸せにならない。

管理職には「長く働かせること」ではなく、「限られた時間で成果を出すマネジメント」を学んでもらうことが大切なんです。

 

4-7.管理職は育てなければ育たない

だからこそ、会社としては、管理職に対して「マネジメントとは何か」をきちんと学ぶ機会を設けることが大切なんです。

管理職は、一度任命したら終わりではありません。時間をかけて育てていくものだと思います。実際に、労働大学校を運営する労働政策研究・研修機構でも、現在の管理職に不足している能力として、リーダーシップやセルフマネジメント、つまり自分自身の健康管理能力などが挙げられています。

これらは、生まれつき備わっている能力ではなく、学び、身につけていく能力です。だから企業としては、もう一度、人材育成にしっかり投資していく必要があります。

今、人的資本経営が注目されていますが、その本質は「人をどう育てるか」です。リカレント教育やリスキリング、アンラーニングといった考え方も、そのためにあります。

管理職を育てることは、組織を育てること。その視点を持つことが、これからの企業にはますます重要になると思います。

私たちが医学部で教わったことも、今振り返ると大きく変わっています。

例えば、白血病や胃がんの原因についても、当時の常識と今の医学では考え方が大きく変わりました。胃がんに対して除菌療法が予防につながるというのも、学生時代には想像もしていなかったことです。つまり、どんな分野でも知識は進歩するということです。

そう考えると、管理職に求められる知識やマネジメントの考え方も、昔のままでよいはずがありません。もし何十年も前と同じ内容で管理職教育を続けていたら、時代に合わないマネジメントをする管理職を育ててしまうことになります。

今のマネジメントには、リーダーシップ、人材育成、心理的安全性、エンゲージメント、生産性向上など、新しい知識や考え方が求められています。体系的に経営を学んだ人と、経験だけで管理職になった人では、その差は少なからず現れてくるでしょう。

だからこそ企業は、設備投資だけではなく、人への投資をどう考えるかが重要になります。

人的資本経営とは、人を大切にするという理念だけではありません。管理職も含めて学び続ける仕組みをつくり、組織全体の能力を高めていくことが、その本質だと私は考えています。

さらに、今の管理職に求められる役割は、以前とは比べものにならないほど広がっています。労務管理だけではありません。過重労働対策やメンタルヘルス、健康管理、作業管理、さらには心理的安全性を含めた職場環境づくりまで求められる時代になっています。

これだけ守備範囲が広くなると、管理職一人で対応することは現実的には難しいんです。

だからこそ、産業医や保健師などの産業保健スタッフが、管理職とスクラムを組んで支えていくことが重要になります。

健康管理や作業管理の専門的な部分は産業保健スタッフが支援し、管理職は職場運営や人材育成に力を発揮する。その役割分担が、これからますます大切になってきます。

私たち産業保健スタッフも、労務管理やマネジメントについて学び、管理職に寄り添いながらサポートできる存在にならなければいけません。

今は、管理職だけが頑張る時代ではありません。管理職と産業保健スタッフが一つのチームとなり働きやすい職場をつくっていく。そんな時代になってきたのではないかと思います。

産業医の仕事も、私が産業医になった頃と比べると大きく変わりました。化学物質管理一つをとっても、求められる知識や技術は格段に増えています。今では、一人の産業医がすべての分野に対応することは難しく、有害物質を扱う工場とオフィスでは求められる専門性も大きく異なります。そのため、専門性を維持し、より良い支援を行うためには、継続的に学び続けることが欠かせません。

管理職も同じです。求められる役割がここまで広がった以上、「管理職だから何でもできる」という時代ではありません。だからこそ、管理職が学び続け、成長し続けられる環境を整えることが必要です。そのための教育はコストではなく、人への投資です。こうした人的資本への継続的な投資が、管理職の力を高め、従業員の健康や組織の活力を支え、最終的には企業価値の向上へとつながっていくのだと思います。

ところが現実には、「管理職が足りないから、明日から君が行って」という形で配置されることも少なくありません。そうすると、職場でさまざまなトラブルが起こります。

実際、上司が替わったことをきっかけに、部下がメンタルヘルス不調になるケースは決して珍しくありません。上司が替わった途端、それまでのマネジメントが大きく変わり、職場が混乱してしまうことがあるんです。

これは、その人となりというよりも、管理職として必要なマネジメントを十分に学ぶ機会がなかったことが大きいのではないでしょうか。

だからこそ、企業は管理職を任命するだけでなく、継続的に育成し、学び続けられる環境に投資することが重要だと思います。

実は、産業医も同じです。産業医も、十分な教育や経験がないまま産業医になれば、期待される役割を十分に果たすことはできません。

以前、産業保健総合支援センターで、「うちの産業医の先生は職場巡視もしてくれないんです」という相談を受けたことがありました。もちろん、それだけを責めても問題は解決しません。

産業医も管理職も、役割を果たすためには、継続した教育と育成が必要なんです。

だから大切なのは、個人の能力を責めることではなく、学び続けられる仕組みをつくることです。また、管理職を育てることも、産業保健スタッフを育てることも、企業の重要な投資です。

ではその役割を担うのは誰なのか。

 

4-8.人的資本経営の主役は誰か

私は、その責任は経営者にあると思います。人的資本経営とは、人を育てる経営です。

例えばCHO(Chief Health Officer)など健康経営を推進する責任者が中心となり、管理職を継続的に育成し、そのマネジメント能力を高めていく。その結果として、従業員の健康を守り、企業リスクを低減し、生産性や企業価値の向上につながります。だから管理職教育はコストではありません。未来への投資なんです。

もし、その投資を怠ればどうなるでしょうか。

ラインケアの教育も十分に行われず、セルフケアも浸透しない。そうした状態では、メンタルヘルス不調や離職、労務リスクが増え、企業経営そのものが不安定になってしまいます。

一方で、産業保健の役割も大きく変わってきました。かつては、労働安全衛生法で定められた業務を行うことが中心でしたが、今ではそれだけでは十分ではありません。

健康経営の推進においても、産業医や保健師などの産業保健スタッフが積極的に関与することが期待される時代になっています。

つまり、管理職を支え、経営を支え、企業の成長に貢献することまでが、これからの産業保健に求められる役割になってきているのです。

そういう時代ですから、管理職に求められる能力は、どんどん増えてきています。

先ほど学校教育の話をしましたが、昔の知識や価値観のままで管理職を続けてしまうと、一番困るのは現場で働く部下なのです。

だからこそ、経営者はこの問題を経営課題としてしっかり捉えなければいけません。

それが遅れてしまうと、結果として企業そのものが大きなリスクを抱えることになります。場合によっては裁判になりますし、企業が敗訴するということは、企業に何らかの落ち度があったということです。言い換えれば、危機管理が十分ではなかったということになります。

人的資本経営の観点から考えても、まず重要なのは管理職です。

『ハーバード・ビジネス・レビュー』日本語版(2023年10月号)※では、コロナ禍など不確実性の高い環境においては、中間管理職が企業の競争力を左右する重要な存在であり、その継続的な能力開発への投資が大きな成果につながると指摘されています。

さらに、中間管理職の能力を継続的に開発することが、企業に大きな利益をもたらすことが示されたとも書かれています。

つまり、管理職に新しい知識を身につけてもらい、継続的に教育していくことが、結果として経営者を支える人材を育て、企業の利益につながるということなのです。

そして、日本の企業では、それだけでは十分ではありません。

企業が持続的に利益を上げていくためには、従業員の健康が確保されていることが前提になります。健康が損なわれれば、生産性は低下し、企業の損益にも必ず影響してきます。

ですから、経営者は管理職をどう育成し、健康も含めたマネジメントをどう担ってもらうかを、経営戦略として考えなければならない時代なんです。

実際、厚生労働省の調査を見ても、経営者が管理職に期待していることと、管理職が経営者に期待していることの間には、非常に大きな乖離があることが示されています。

※参考記事
エミリー・フィールド、ブライアン・ハンコック、ビル・シャニンガー(飯野由美子訳)「中間管理職の人員削減を軽々しく行うべきではない――継続的な能力開発が莫大な利益をもたらす」『DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー』2023年10月号、ダイヤモンド社。

 

 

4-9.学び続ける管理職だけが生き残る

管理職の方にお話を伺うと、「これからもっと外国語を勉強したい」「マネジメント能力を高めたい」という声をよく聞きます。

ところが、経営者の側は必ずしもそう考えていません。「管理職だから、それくらいの能力はもう身についているだろう」という前提で考えていることが少なくないのです。

でも、それではいけないと思うんですね。

医学の世界も同じです。医師免許を取ったからといって、それで勉強が終わるわけではありません。医学は日々進歩していますから、学び続けなければなりません。

管理職もまったく同じです。

世の中はどんどん変わっています。外国人労働者が増えてきていますし、多様な価値観を持つ人たちと一緒に働く時代になっています。そう考えると、外国語を学びたいという方もいるでしょうし、マネジメントをもっと勉強したいという方もいるでしょう。

リカレント教育も重要ですし、これまで学んできたことだけでは通用しないのであれば、一度これまでの考え方を見直し、新しい知識や価値観を学び直す。いわゆるアンラーニングも必要になってくると思います。

そうした学びを総合的に支えながら、管理職を育てていく。そのことを経営戦略の中にしっかり位置づけていかなければ、この時代に企業が持続的に成長し、未来を切り拓いていくことは難しいのではないか。私は、そのように考えています。

 

4-10.健康経営の原点は“投資対効果”

森本:ありがとうございます。もちろん投資は大事だということもあるんですけども、投資をする限りは、育成とか評価の視点も必要なんだろうなと思いながら話を伺いました。

岡田:健康経営の基本的な考え方は、投資をした以上、必ずアウトカムを求めるということなんです。

私どもが最初に健康経営を考え始めた頃、健康診断には会社が莫大なお金をかけているにもかかわらず、再検査や精密検査を受けない従業員がたくさんいました。

昭和50年代の話です。当時は、これだけのお金をかけているのに、従業員は健診結果すら見ない。会社のほうも、産業医などの体制が十分ではありませんでしたから、異常所見があっても放置されることが少なくなかったんです。

これだけ大きな投資をしているのに、まったくリターンを求めていない。それは経営上、大きな問題ではないか。そこが健康経営の出発点なのです。

中小企業の方からは、「健康にお金をかけるのは大変です」とよく言われます。でも私は、「いや、もう既にお金はかけていますよね」とお話しするんです。

例えば健康診断です。40歳以上で人間ドックを受ければ、一人4~5万円はかかります。従業員が1万人いる企業なら、それだけで何億円という投資になります。以前勤めていた企業において、健康管理事業費は、年間10億円以上のお金をかけていたと思います。

では、その投資に対してリターンを求めていますか、ということなんです。

「リターンって何ですか」と聞かれることがあります。

感情論ではなく、経営者の立場から考えれば、何億円も投資しておきながら、まったく成果を求めないというのは、おかしいじゃないですか。

経営の視点で見れば、ざるから水が漏れるように、お金や利益が流れ出ているのと同じことです。

すると、「いや、法律で決まっているから、やらなければならないだけです」とおっしゃる方もいます。でも、やる以上はアウトカムを出しましょう、ということなんです。

では、そのアウトカムとは何か。

私は、労働生産性を高めること、そして医療費を減らすことだと考えています。結果として健康保険組合への拠出金の抑制にもつながります。

そういうお話を続けてきたことで、ようやく企業の皆さんにも理解が広がり、さまざまな健康施策を考えていただけるようになったわけです。

森本:ありがとうございます。投資プラス、評価、育成という、すごくすっきりした議論と思いながら伺っていました。

 

4-11.「何も起こらない」ことに投資できるか

彌冨:先日お会いした某企業の方が「健康経営銘柄って就活生がよく見ているので、うちも頑張って取り組まないといけないんです」とおっしゃっていました。健康経営が就活生にも認知されていて、企業選びの一つのポイントになってきていると感じました。

岡田:ありがとうございます。

彌冨:今日は、管理職の教育、その役割や部下との関係性、さらには経営との接続、そして組織としての仕組みづくりや支援のあり方まで、非常に幅広い視点でお話が伺えたと思います。個人の問題として捉えるのではなく、組織や仕組みで支えていくことが、これからますます重要になってくると感じました。

それでは最後に、本日の議論を踏まえて、岡田先生から皆さまへメッセージをいただけますでしょうか。

岡田: 今日のテーマからしますと、企業の屋台骨は、もちろん経営者です。しかし、その屋台骨を現場で支えているのは、やはり管理職という重要な存在なんです。

職場で起こるさまざまなトラブルも、メンタルヘルス不調にしても、労働災害にしても、管理職が少し注意していれば防げたのではないか、というケースが少なくありません。

例えば、「今日は少し様子がおかしいな」「この状態で高所作業をさせるのは危ないな」といったことは、現場にいる管理職だからこそ気づけるわけです。

「そういえば、あの時いつもと様子が違っていたな」という事例を何度も経験しています。その時に気づいて声をかけ、適切に対応していれば、何事もなく終わっていたかもしれない。

ところが企業では、「何事もなかった」ということは、投資する必要がなかった、と考えてしまうことが少なくありません。

でも、健康経営の考え方は違います。

「何事も起こらないこと」に投資することこそが大切なんです。

事故が起こらない。病気で休む人がいない。みんなが健康で、定年まで元気に働くことができる。そして退職するときに、「いい会社で働くことができてよかった」と思ってもらえる。私は、それこそが企業価値を高めることにつながるのだと思っています。

 

4-12.「あの上司の下で働きたい」が企業価値になる

何事もない状態を維持していくために、どれだけの投資をしていくのか。それを考えるのが経営者です。

一方で、その投資をいかに効果的に成果につなげるか、いわゆるコストパフォーマンスを考えるのが管理職なんです。

ですから、これからは健康ということも、管理職のマネジメントの中にしっかり入れていかなければならない時代になってきています。

例えば離職率もそうです。せっかく育てた従業員が辞めてしまう。人材を育て、職場に定着させるということも、企業にとって非常に重要な課題ですし、それを支えるのも管理職の大切な役割なんです。

私がいつも考えているのは、入ってきた従業員の方が、「あんな管理職になりたい」と思える会社を、どうすればつくれるのかということです。

逆に、「あんな管理職にはなりたくない」と思われるような管理職もいます。毎日死に物郭で働いていて、余裕がまったくない。管理職のそういう姿を見ていると、若い人たちは「自分には未来はない」と感じてしまうんですね。

そうではなくて、ゆとりがあって、決断力もある。継続的に学ぶ力も知識もあって、部下からも信頼される。そういう管理職を、経営者がどう育てていくのか。

私は、それこそが企業の魅力を高め、企業価値を高めることにつながると思っています。知識やノウハウを蓄積し、管理職を継続的に育成すること。その積み重ねが、最終的には企業の利益にも結びついていく。

それが、私の考えです。

彌冨:岡田先生、貴重なお話をありがとうございました。

お話の中で特に印象に残ったのは、「頑張る人を増やす」のではなく、「一人ひとりが健康で力を発揮できる組織をつくること」こそが、これからの管理職と経営に求められる役割であるということでした。また、管理職教育は単なる人材育成ではなく、企業の未来を支える人的資本への投資であり、その積み重ねが労働生産性や企業価値の向上につながるという視点も、大変印象的でした。

感情に任せた努力を求めるのではなく、仕組みと教育で人を育てる―そんな未来へのメッセージをいただいたように思います。

岡田先生、インタビュアーの先生方、本当にありがとうございました。