労働政策審議会前会長、東洋大学法学部名誉教授 鎌田耕一様インタビュー

労働政策審議会前会長、東洋大学法学部名誉教授 鎌田耕一様にインタビューを行いました

 

学会広報委員会
本日は、産業保健法学という視点から、現在の産業保健の課題や今後目指していくべき姿について伺えればと思います。先生は産業保健法学という新しい領域についてどのようにお考えですか?

 

労働政策審議会前会長、東洋大学法学部名誉教授(以下、労政審前会長) 鎌田様
産業保健の射程範囲を考えてみると、次のようなことが言えると思います。
「個人で仕事をしている人を広く対象として、
職場における災害や健康障害を予防し、
健康面に何らかの課題を持つ人が安心して就業できる環境を整備し、
同時に、災害などにより生じた損害を補償する制度を構築することを目指す法分野」
このように整理すると、産業保健の課題をとらえやすくなるのではないでしょうか。

 

学会広報委員会
これは我々にとっても理解しやすい明確な定義ですね。まず、「個人で仕事をしている人を広く対象とする」という点について伺いたいと思います。ここで個人ということを強調されているねらいは何でしょうか?

 

労政審前会長 鎌田様
現在、雇用労働者以外の人達、個人で仕事をする人達(フリーランス、ウーバーイーツの運送代行者ような個人事業主など)は労働安全衛生法や労災保険法の対象となっていません。現在の法体系や社会制度は、従来の雇用労働者を前提としたものですが、これらの人達も広く対象としていくべきだと思います。

 

学会広報委員会
今後これまでと違った雇用形態の多様化が進むことを考えるととても重要な課題ですね。次に、「職場における災害や健康障害の予防」についてはいかがでしょうか?

 

労政審前会長 鎌田様
労働災害により4日以上休業したり、死亡した人が、昨年、13年ぶりに13万人を超えました。労災予防は待ったなしの課題です。ところが、「予防」と「法」は相性があまりよくありません。予防が事前の対策なのに対し、法は事後の責任やルールを定めたものだからです。仮に予防政策を法律で定める場合、その実効性をどう確保すれば良いか、という問題が生じます。予防政策を徹底させるには、例えば、行政指導、行政処分、罰則などの制裁措置を定める方法もあります。しかし、抑止効果は限定的です。このように予防は法学的には難物で、色々な工夫が必要になります。

 

学会広報委員会
予防政策の実効性を高めるために、例えばインセンティブを与える方法もあるかもしれませんが、どのような与え方をすれば実効性が最も高まるのか、確かに未検証の部分が多いですね。次に、「健康面に何らかの課題を持つ人が安心して就業できる環境の整備」という点について、いかがでしょうか?

 

労政審前会長 鎌田様
例えば、メンタル不調による長期休業からの復職の場合、病み上がりの労働者にもそれを受け入れる事業者にも双方に不安が生じます。そこで、リハビリ出社のようなトライアルの機会が設けられる場合があります。基本的に、このトライアルは会社の善意で行われるものでしょうが、法的には多くの課題を含みます。例えば、この期間に事故を起こした場合どうするのか、この期間の賃金はどうするのか、そもそもトライアルとは雇用関係の下で行われるものなのか、など。このあたりの法整備は必要です。また、不妊治療と就労の問題もあります。不妊治療のために休暇を取ったり業務量を減らしたりすることに、なかなか理解が得られない職場もあるのが現状だと思います。不妊治療に医療保険を適用する議論は進んでいますが、不妊治療を職場で受け入れるための職場教育も重要だと思います。

 

学会広報委員会
それでは、「災害などにより生じた損害を補償する制度の構築」については比較的整備が進んでいるようにも思いますが、現状どのような課題が残されているのでしょうか?

 

労政審前会長 鎌田様
先にも述べた通り、フリーランスやウーバーイーツ運送代行者のような個人事業主が業務中に被災しても、現状では労災補償の対象ではありません。労災保険には、自営業者やトラック運転手などが全額自己負担で任意に加入する特別加入制度があります。これまで、業種が限定されており、ウーバーイーツや芸能実演家は加入できませんが、今年4月1日から芸能従事者は加入できるようになりました。このような雇用類似者に対する労災補償は拡大すべきで、少なくとも特別加入制度の適用を考えていくべきだと思います。

 

学会広報委員会
産業保健の現状について法学の視点から課題の整理と目指すべき方向性を示して頂き誠に有難うございました。
最近の産業保健では、増加するメンタルヘルス不調、特に若い方において、仕事内容や職場環境と自分の考え方や心理特性とのミスマッチから生じるメンタルヘルス不調にどう対処すれば良いかという問題があります。これは、治療とかの問題ではなく、批判を恐れずに言えば、環境を変える、場合によっては転職もその解決策になりうるのですが、転職を嫌がって結果的に休職を繰り返すといった事例も少なくありません。そうしたケースをみるたびに、自分と仕事のマッチングを求めてもっと自由に仕事や会社を選べるような社会になれば、と思うのですが。

 

労政審前会長 鎌田様
今の日本で主として行われているのは企業の中核的存在になるための教育です。そうした考えやそれに伴うある程度の競争は必要かもしれませんが、皆が一律にそれを目指すのではなく、数年毎に自分のキャリアを見直すことができる機会を設けることも大事だと思います。そうすることで、自分に向いている職業を見つけることができる可能性が高くなると思います。
欧米では、職種・職業で雇用が決まる職種別労働市場が一般的なので雇用の流動性が高くなっています。しかし、社会の構造も制度も異なる外国の仕組みをそのまま日本に当てはめようとしても、上手くいくとは限りません。日本の社会に適合できる仕組み作りが必要です。例えば、職業を仲介する事業やプラットフォームの活用が必要になるでしょう。個人のみの努力では入手困難な企業の詳細な情報(雇用環境、残業、研修制度、離職率など)が仲介事業を通じて提供されれば選択の幅が広がります。こうしたプラットフォームを充実させることで自分にあったキャリアを選択できると思います。労働市場を円滑化することを目指し、厚生労働省の「労働市場における雇用仲介の在り方に関する研究会」(座長は鎌田)では議論が始まっています。

 

学会広報委員会
こうした取り組みが進むと大きな変化が起こりそうですね。最後に、本学会に対する期待をお聞かせください。

 

労政審前会長 鎌田様
様々な課題を医学、心理学、安全工学などの関連分野と共同して研究するのは非常に斬新で素晴らしいと思います。本学会は、熱意と意思を持った専門家が自発的に集まったもので、大変画期的だと思います。法律家である私が産業保健に思いを巡らすことはなかったし、逆に産業保健職も業務に関連する範囲の法律は知っていても、法の哲学にまで思いをはせることは多くはなかったはずです。この学会では、実務の中で活躍している専門職の問題意識を汲み上げつつ、学問的な観点から産業保健法を体系的にとらえ、さらに、学問を現場で実践することが可能だと思います。学術論文を書くだけでなく、例えば就業規則の中に反映させて活かすこともできる。産業保健職の権限と責任をどうとらえ、事業者との契約の中にどのような行動基準を設けるか、それを提唱できるとすれば、この学会でしょう。そのような新しい取組みができることを期待しています。

 

鎌田耕一様  労働政策審議会前会長、東洋大学法学部名誉教授
【ご略歴】
中央大学大学院法学研究科博士前期課程修了後、流通経済大学法学部教授、東洋大学法学部教授をへて現在名誉教授。公職としては、現在、司法試験考査委員(労働法)、厚生労働省東京労働局個別紛争調整委員会会長など。