守備範囲

⑴ 活動の基本的枠組み

その最大の特徴は、問題解決志向と予防志向にあります。従来の法学は、既に生じた紛争の事後的な解決を志向してきました。本学会は、そこで培われた知見を基礎とするものの、関係するさまざまな分野の知見を総合して、産業保健に関する法的な問題の解決と防止を図ります。最先端の学問研究から、現場的課題についての実践的な議論までを誘いますので、千客万来です。教育活動では、産業医など産業保健の専門職への実践的な法教育を重視します(図1)。

図1 本学会活動の基本的な枠組み

⑵ 「現場の問題解決」を目的とした守備範囲

また、現場の問題解決を目的とした本学会の守備範囲は、図2のように整理できます。横軸に時間を、縦軸に視座をとり、次のような4象限を想定しています。

①マクロ×未然防止領域
産業保健に関する問題の未然防止のための法制度はいかにあるべきか
Cf.労働安全衛生法の立法提案など

例えば、フリーランス、テレワーク労働者に対する労働安全衛生規制のあり方、危険有害性が明確でない化学物質の取扱いにかかる規制のあり方など

②マクロ×事後解決領域
産業保健に関する問題を事後的に解決するための国レベルの法制度や法解釈はいかにあるべきか
Cf.労災補償制度のあり方、労災補償の打ち切りのあり方など

例えば、業務上のアルコールの過剰摂取の影響が窺われる肝炎、化学物質過敏症への労災認定のあり方、長期化し易い精神障害による労災補償の停止の判断のあり方など

③ミクロ×未然防止領域
産業保健に関する問題の未然防止のための社内の規定や制度はいかにあるべきか
Cf.予防に役立つ社内規定・制度のありようなど

例えば、新たな健康管理規定の作成により、不調者が減少した、トラブルが減少したなどの好事例があれば、その要因分析と展開可能性など

④ミクロ×事後解決領域
産業保健に関する問題を事後的に解決するための個別的な手法や、訴訟化した場合の法解釈はいかにあるべきか
Cf.訴訟外での紛争解決のノウハウ、適正な賠償理論のあり方など

例えば、従業員に業務上外が不分明な健康障害が生じた際に、その紛争化の水際での防止に貢献した方策があれば、その要因分析と展開可能性など

図2 現場問題の解決の整理

 

(3)個別的な検討課題

具体的な活動として、研究大会の開催、ジャーナルの発行、研修会や事例検討会の開催等を予定しています。

また、当面の検討課題として、次の10の事柄(表1)を想定しています。

 

表1 当面の検討課題

課題
様々なステークホルダーによる連携的な産業保健を促す法制度の在り方
多様で濃密な働き方の行き先、生じ得る健康問題と法的規制の在り方
兼業者や雇用類似の契約者の増加等に対応する安全衛生の確保策
これからの化学物質管理と法
診断学や病理学等の進化を念頭に置いた、脳・心臓疾患及び精神障害の労災認定や治癒の判定基準
脳心臓疾患や精神疾患以外の健康障害への労災補償の射程
健康情報の適正な取扱いの在り方
適正な休職・復職判定の在り方
パーソナリティや発達の問題が窺われる従業員への適正な対応の在り方(合理的配慮のありようを含む)
ハラスメントへの実効的対応策

 

①経営者、管理者、産業保健の専門家、家庭、医療機関、リハビリ機関その他の外部専門機関、社会保険者、社会福祉施設など、様々なステークホルダーによる連携的な産業保健を促す法制度の在り方

健康という資源は労使や関係者にとって共通の利益であり、その実効的確保の観点でも、労使間の利害対立関係を前提にした法制度は必ずしもなじみません。関係者全員(特に家族)の積極的な行動を促す「円環的な責任構造」の法制度化が求められます。

とはいえ、その実効的な具体策は未解明であり、国や組織の文化に応じて異なり得ます。従来どおり事業者責任を基軸とすべきか等、根本的な議論が求められます。

②多様で濃密な働き方の行き先、生じ得る健康問題と法的規制の在り方

(1つの事業場における)長時間労働の抑制と併せ、労働密度の向上や、これまで就労して来なかった層(女性・高齢者・障害者等の一定割合)の就労促進を図る働き方改革の行く先と生じ得る健康問題、法的規制の在り方を検討します。

③兼業者や雇用類似の契約者の増加等に対応する安全衛生の確保策

上記⑵とセットで生じ得る課題ですが、別立てでの検討が適当と思われます。

なお、テレワークに伴う健康問題等の安全衛生に関する問題への法的規制については、特命委員会を設けて検討します。

④これからの化学物質管理と法

大阪の印刷工場で生じた胆管がん問題に象徴されるように、化学物質管理の法政策は、古くて新しい、人の命や健康に関わる規制科学の重要問題です。現在、約7万種類の化学物質が職場で取り扱われていると言われます。我々の生活は、現に多くの化学物質に支えられている以上、それらの製造や取扱いを全て禁止するのは現実的でない一方、実効的な規制のありようは、知識、技術、コストなど、さまざまな限界との関係で、国内外で長年の難題でした。これは、いかに産業の高度化が進んでも、労働者らが化学物質に接触する(ばく露する)機会がある限り、継続する問題です。

化学物質管理に関する労働安全衛生関係規制は、製造業者らによる新たな物質の危険有害性の調査と行政への届出、危険有害性の大きさによる規制の段階化(製造禁止から危険有害性の自主的な調査等の推奨まで)を基本として、事業者による技術的措置、製造業者らによる危険有害性情報の事業者への伝達、作業場の空間にある有害物の測定、評価と有効な対策の基準化、専門家や専門機関の養成など、多様な主体による多面的な措置を、強制から誘導、権限の設定まで、さまざまな手法で図ってきました。しかし、新規化学物質は増加の一途を辿るし、既存化学物質の危険有害性も全て明らかではないし、たとえ明らかであっても適切な測定にはさまざまな障害があります。そうした中で、アスベスト訴訟のように、国の規制権限の不行使が問われる訴訟や、化学物質被害に遭った労働者が事業者や製造者の過失責任を問う訴訟も生じています。これは、科学者と制度論者が協働して取り組むべき課題です。

そこで、現在の規制のあり方を整理したうえで、実効性ある規制のあり方を法政策学的に検討します。

⑤診断学や病理学等の進化を念頭に置いた、脳・心臓疾患及び精神障害の労災認定や治癒の判定基準

近年、労働災害補償をめぐる実務上のトラブルのほとんどは脳・心臓疾患及び精神障害に関わっています。それぞれに認定基準は作成され、適宜改変されていますが、現実には、疾病と労働の医学的な因果関係(事実的因果関係)の確定は困難で、法的な画一的基準で結論を出さざるを得ません。

しかし、たとえば脳・心臓疾患について、労働の負荷を労働時間のみで評価することは必ずしも妥当とは言えない一方、対象者の素因の評価基準が存在しないなど、その客観化には限界があります。また、精神障害についても、認定基準に柔軟性が欠けること、請求者の自訴のみが発症の有無や時期の証拠となりがちで、客観的な医学的所見が得にくいこと、労災補償給付を得ている場合には治癒の判断が遅くなりがちなことなど、問題が山積しています。

背景には、医学と法律学との間のコミュニケーション機会の乏しさもあるように思われます。よって、医学・法律学双方の知識と経験の日常的な擦り合わせが求められるでしょう。

なお、治癒の判定基準については、特命委員会を設けて検討します。

⑥脳心臓疾患や精神疾患以外の健康障害への労災補償の射程

脳心臓疾患や精神疾患について広く労災補償を行えば、必然的に、過労による糖尿病や業務上のアルコールの摂取による肝臓がんなど、さまざまな健康障害について、労災補償の是非が問われることとなり得るし、現に、そのような点を争う労災申請や行政訴訟が生じています。

そこで、あまたの健康障害のうちどこまでを労災補償の射程とするべきかにつき、原理論を検証しつつ、先行的かつ多角的に検討します。

⑦健康情報の適正な取扱いの在り方

一方では健康・安全配慮義務の履行ないし積極的な健康確保措置のため、使用者が取り扱う必要がありながら、他方では刑法や特別刑法、個人情報保護法、プライバシー権法理で取扱いに厳しい制限が加えられている健康情報の適正で現実的な取扱いの法理や法制度を検討します。

その際、フランスのように、産業医等の産業保健の専門家に情報管理を委ね、事業者らが取り扱える情報を制限する等の方法も考えられますが、産業医等の質・量が不十分な前提で、どのような取扱いの法理・法制度が適当かを検討する必要もあると考えます。

⑧適正な休職・復職判定の在り方

法的な観点では、不適正な休職・復職判定は、使用者の所得や雇用の保障責任、安全配慮義務違反等の過失責任などの法的責任をもたらすこと、現に人的な経営資源を喪失するか否かという経営問題であることなど、重要な課題ですが、片山組事件最高裁判決が示した枠組みも、他の職種への配転の可能性を探るよう示唆しつつ、判断の要素を列挙したにとどまっています。

就労可能性の判断は産業医にとって重要な役割ですが、その適正を、常に、しかも事前に確保することは極めて困難であり、法律実務では、民事調停を利用した柔軟な解決法も探られています。

よって、法形式的な規範論ではなく、事件において産業医が果たした役割、本人の従前の仕事ぶり、パーソナリティや発達に関わる問題の有無、その他使用者に嫌悪感を持たれる事情の有無など、法社会学、組織心理学的な観点も踏まえて、適正かつ実効性のある判断基準や手続き論を検討します。

⑨パーソナリティや発達の問題が窺われる従業員への適正な対応の在り方(合理的配慮のありようを含む)

心理社会的リスクへの対応が法的になされている欧米の国でも、こうした問題は法的にはほとんど認識されていないようですが、日本では、こうした問題が窺われる従業員に係る問題(職場秩序の紊乱、職務遂行能力の低下など)が注目され、対応法が模索されています。

しかし、現実には、労働法(学)でも社会保障法(学)でもグレーゾーンに位置するケース(疾病罹患者とみなされ難い、みなされる場合も的確な診断名を得ていない、職場秩序の紊乱が懲戒事由に当たる程度に及ばず、或いは、懲戒処分が適当か不明であるなど)も多く、有効な対応策は未解明です。

そこで、現にそうした者が増えたのか、是とすればその背景は何かからはじめ、医学的解消法は何か、労働法・社会保障法的に講じ得る措置は何か、両者のすりあわせは可能かまでを検討します。

⑩ハラスメントへの実効的対応策

近年、ハラスメントの用語が日本の司法でも盛んに用いられるようになり、対応策が立法化されましたが、その本質と実効的対応策は十分に解明されていません。

形式的な規準ばかりを発達させれば、管理者などが萎縮し、業務や人材育成上必要なコミュニケーションにすら奥手になることもあります。他方で、人間関係や組織の方針・文化との相性などの問題から、陰湿で悪質なハラスメントに遭い、組織内外で声をあげてなお実効的な対応が図られずに精神的に病む者もいます。

その背景に、組織の運営権者が関与している場合もあれば、そうでない場合もあります。関係者の忙しさ・ゆとりのなさが大きく影響している場合もあれば、そうでない場合もあります。一方で、加害者や被害者にパーソナリティや発達の問題が窺われる場合もあれば、そうでない場合もあります。形式的に違法でも、見方を変えれば必要なものもあり得るでしょう。

このように、人間・組織という生(なま)ものには必然的に伴うであろう、しかし、時代性も孕むであろうハラスメントの本質につき、学際的に分析して実効的な対応策を検討します。

 

※なお、幸福の経済学などが示唆するように、こうした課題の背後には、同じ問題に直面しても「前向きになれるか否か」などの心理学的な健康格差が潜んでいる可能性があります。そうしたメタレベルの課題も積極的に捉え、社会学、社会心理学等の支援を得つつ検討します。