日本産業保健法学会とは

本学会設立の背景-活動経験と必要性

⑴ 前駆活動

この学会は、発起人(後述)の1人である近畿大学法学部三柴丈典教授が中心となって設立・運営し、産業医、社会保険労務士、保健師・看護師、カウンセラー、企業の人事担当者や弁護士ら約800名の講座受講者を輩出した、産業保健法学研究会(2012年設立。当初の名称は、産業保健法務研究研修センター)の活動経験を基礎に発足を図るものです。

⑵ 本学会発足の必要性

産業保健に関する問題は、「臨床医学」、「公衆衛生学」はもとより、「労働法学」、「経営学」などという個々の専門分野のみでは解決が難しく、現場、個人と組織を見据えた学際的な対応が求められます。それは、使用者と労働者はもとより、医療機関、リハビリ機関、家族などの関係者のほか、「健康」、「労働」、「利潤」など、複数の主体と複数の価値が複雑に絡みあうことに起因します。

そのことを象徴する具体例として、近年生じた神奈川SR経営労務センター事件が挙げられます。このケースでは、同種同根の問題から、既に4つの訴訟が提起されています。元は、社会保険労務士が運営する同センターが、おそらくは、その組織とあまり相性の良くない事務員を採用したこともあって、ハラスメント問題に発展し、事務員から訴訟が提起された後、センター側が一定金額を支払い、ハラスメント防止策をとること等を内容とする訴訟上の和解で終結しました(これは、訴訟実務上、センター側がハラスメントの存在を認めたのと同じような意味を持ちます)。しかし、その後も対立関係は継続し、事務員は、和解条件が守られていないとして2次訴訟を起こし、その請求は認容されました。そのうちに、事務員は、うつ状態となりましたが、センターから休職命令を受けて療養し、臨床症状は改善したため、主治医の診断書を添えて復職を求めたところ、心療内科を臨床上の専門とするセンターの嘱託産業医は、性格・人格的な問題から復職不可との意見を述べ、センターも復職を拒否して休職期間満了による退職措置を講じたため、3次訴訟が起き、結局、退職措置は違法無効とされました。その後も、センターが給与を支払いつつも復職させずにいたところ、遂にはセンターの嘱託産業医を相手方とする訴訟が提起された、という経過です。

このケースでは、被告は人事労務問題のプロであるはずの社会保険労務士の団体等であり、心療内科を専門とする嘱託産業医も代理人弁護士もいる、という体制のもとで、事態は沈静化せず、悪化しました。以前であれば、実際には、退職勧奨や解雇で終わっていた問題なのかもしれませんが、今は、ハラスメントなどとして事件化してしまいます。では、どうすれば良かったのでしょうか。

いまこの紐解きに、法令・判例情報を素材として、産業医・産業保健スタッフの役割、そして、個人と組織の意思決定の礎となる学究活動を始めたいと考えています。

では、産業保健にとって、なぜ法が重要なのでしょうか。大きく次の2つが挙げられます。

1)法が領域をリードしている(法が産業保健業務の指針を提供している)こと、

2)法的紛争が起きやすい(健康という概念が曖昧で多様なため、健康被害などについて、責任の所在が不明確になりやすく、裁判所が常識を踏まえ、関係者を説得する必要がある)こと

では、産業保健において、法は、どのように役立つのでしょうか。

  •  法の説得力≓行動統制力

特に医療人、人事労務関係者には説得力を持つと考えられます。なぜなら、医療人は治療の論理が、人事労務関係者は労働生産効率の論理が、各々の行動の大きなモチーフとなりましょう。すると、ついつい違法を犯してしまい、制裁、面倒な裁判、多額の賠償金の支払いなどの「痛い目」をみてしまうこともあります。そうした事態を避けるため、両者共に、法律論には耳を傾ける傾向にあると考えられます。

  •  法の納得形成力

法は、価値観の異なる者(同士)が起こす紛争の解決や、犯罪の処罰を主な役割としてきたため、国の法令、判例から職場のルールに至るまで、利害関係者に納得をもたらし易いと考えられます。

以上から、法の知見を基礎としつつ、関係分野の知恵を統合することで、産業保健にかかる不幸な事案を未然に防ぎ、また起きてしまった事案をより建設的に解決する知見を紡いでいく必要性があると考え、この学会を設立することとしました。